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Ayabex

■ からだに開いた穴のひみつ

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とある事件がおきて、下の前歯がちょっと欠けてしまい、歯医者さんへ行った。

ラテックスの手袋をはめた指先で、ぎざぎざになった歯先をなぞりながら「ああ、これは気になるだろうね」とつぶやいた先生は、この程度の欠けは補強しても意味がないから削るね、とマジックで歯に印をつけた。

「なんか、堅いものでも食べたの?」
久しぶりに会う先生は、低糖質ダイエットで30キロほど痩せたそうで、すっかりとんがってしまっている。

まさか、新大阪駅のホームでうんこ漏らしそうになったときに歯をくいしばったら前歯が欠けちゃった、とは言えない。かわりに「歯を食いしばって生きてるんだよ」と、細部を省いて情緒ある説明をした。わたしは嘘をつかない。

人生に、犠牲や代償はつきものだ。
うろこのように薄くはがれた前歯のかけらを差し出すことで、わたしは人間としての尊厳を失わずにすんだのだ。

先生は、前歯のギザギザをあっという間になめらかにしてくれた。わたしは舌先でそれを確認してウンウンと頷き、「OK」の意思表示をする。

「あんた、タバコ吸う子だったっけ?」

突然、誰にも知られないように隠していた事実を明らかにされて、わたしは口を開けたまま身をよじった。

「ここ半年くらいなんだけど……やっぱり、わかる?」
「ヤニがね、ちょーっとだけね」

歯科医院というところは、だいぶ無防備な体勢で半ば拘束され、からだに開いた穴のひとつに、指やら道具やら変なにおいの液やらを突っこまれて、にじんでくる体液を吸われて拭われてという、際どい行為が繰り広げられる空間だ。

そのうえ、自分では見えない汚れたところや病んでいるところまで、あの明るいライトの元でつぶさに観察され掘りおこされる、羞恥の館。

「ヤニっていっても全然大したことないよ。唾液がちゃんと出てるんだろうね、からだも元気だってことだよ」

ドライアイみたいに、ドライマウスってのもあるんだよね、それだとすぐヤニで真っ黒になる。先生はそう言いながら、研磨剤のペーストを絞りだしている。

秘密を暴かれてカッと熱くなった頬の熱が、先生の指に移動していった。

先生とは、3年ほど前からの付き合いだ。引越し先の近くで歯医者さんを探していたとき、偶然バーで隣り合わせになった。彼がダイエットをはじめるずっと前で、大柄だけど彫りが深くて眼差しはシャープ。とても100キロ超の巨漢だとは思えなかった。

人との距離は、物理的なものと心理的なものがある。
親密な関係以外で、物理的な距離を縮めるどころか、いきなり入りこんできてマイナスの距離にまでしてしまうのが歯医者さんだ。人が歯医者さんを嫌うのは、パーソナルな領域に突然踏み込まれることへの抵抗があるからかもしれない。

先生は、芸術方面への造詣がとても深くて教養があるのに、気さくで偉ぶるところが全くない。親切だけど、押し付けがましいところもない。何でも知りたがりなわたしは、話を聞くのが楽しくて、すぐに仲良しになった。
わたしが初めて彼のクリニックへ訪れたのは、歯の治療のためではなく、毎週水曜日に来るお花屋さんの、花の活けこみを見学させてもらうためだった。
心理的な距離を先に縮めてから患者になったわたしは最初から無抵抗で、焦る準備ができていなかった。

暴かれた秘密の痕跡はすぐに消えた。

会計を済ませて外に出ると、クリニックの窓がパタンと開いて、先生が「おーい」と顔を出した。

「これ、あげる。虫歯にならないアメ。キシリトール100パーセント」

窓越しに突き出された大きな手に握られていたのは、透明な袋に入った色とりどりのキャンディ。冷蔵庫に入っていたらしく、ひんやりしている。
先生は窓を閉めながら、続けて言った。

「1日に5個も6個も食べたらお腹壊すかもしれんから、気をつけてね」

ドキリ。

わたしの前歯が欠けたのは、新大阪駅のホームでうんこ漏らしそうになったのが原因だということまで、わたしの秘密の穴を覗き込んだ先生は、わかってしまったのではないだろうか。

タバコのかわりに冷たいキャンディをひとつ、その穴に入れた。それから自転車のペダルを踏む。次の用を済ます前に、トイレに行っておかなければ。

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